飛島村

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村の文化財

孝女和喜之碑

孝女和喜之碑

 嘉永7年(1854)大宝家八代目長尾重喬が和喜の美しい心ばえを顕彰し、長く後世に伝えようと建てたのである。この碑は、かつて大宝新田が開拓されたときの海岸堤があった大宝新田字間宝の小高い場所にあったが、昭和42年に大宝寺境内に移された。第14代尾張藩主徳川慶勝の父左少将義建の碑銘、人見漆の讃詩が刻まれている。
孝女「和喜」人物紹介

所在地:飛島村大宝二丁目15番地(大宝寺境内)

六角れんが蔵

六角れんが蔵

 れんが造建築、かわらぶき屋根の二階建てで大寶家10代目当主大寶陣によって明治41年前後に、排水機場のれんが煙突、大寶家邸内の蔵と共に相次いで施工されたと伝えられる。株式合資会社大宝農林部の事務所に隣接しており、主に土地関係の書類倉庫として使用された。

所在地:飛島村大宝二丁目39番地

伊能忠敬測量之跡

伊能忠敬測量之跡

 飛島村へは、享和3年5月8日午後に大宝新田に到着、長尾治右衛門宅に5月11日まで宿泊し、滞在中は雨のため地図を作成したことが日記に記されています。

所在地:飛島村大宝一丁目地内

大宝排水機場保存館

大宝排水機場保存館

 大寶家10代目の大寶陣が、各地の状況をつぶさに視察して、当時の最先端をいく排水機場(ドイツ製大型渦巻ポンプを輸入し設置)の建設を企図、基礎工事は工学士青木良三郎、機関部は工学博士川上新太郎が担当し明治39年初夏に完成させた。石炭を燃料とする蒸気機関によって駆動されていたが、昭和17年(1942)に電動機に切り替えられた。れんが造りの高い煙突は、東南海地震(昭和19年)により倒壊した。
施設概要

所在地:飛島村大宝六丁目85番地

津金文左衛門胤臣像

津金文左衛門胤臣像

 享保12年(1727)名古屋に生まれ。尾張藩の熱田奉行、船奉行の要職にありましたが、寛政9年藩主宗睦の命を受けて飛島新田の干拓事業に心血を注ぎました。いわば郷土の生みの親です。文左衛門の偉業を顕彰するため、平野清次氏、日泰寺方丈吉田鉄心師、大村直一氏ら地元建設委員が中心になって浄財を集め、昭和28年5月に建てられた。毎年5月、文左衛門の遺徳をしのぶため「津金講」が組織され、しめやかに供養が行われている。
津金文左衛門人物紹介

所在地:飛島村元起一丁目72番地(元松神明社境内)

一切経蔵

一切経蔵

 通称「お経堂」と呼ばれ、村人に親しまれている一切経蔵は、文化7年(1810)、木村忠右衛門が父の遺志を継いで、干拓のため犠牲になった多くの魚貝類や虫の死を哀れみ、その供養をするために建てた。簡素な建物ながら、美しい流れるような屋根の線、何か言いしれぬ優しい風情を漂わせた「堂構ノ美」。一切経文、蓮如上人真筆の六字の名号は散逸した。

所在地:飛島村元起二丁目16番地

津金君遺愛碑

津金君遺愛碑

 津金君遺愛碑は、彼の墓所のあった名古屋市中区門前町曹洞宗興国山大光院の境内から墓石の代わりとして平野清次氏らの奔走により馬車で長昌院境内に移されたもので、文左衛門の辞世の歌ともいわれる和歌が流麗なタッチで刻まれている。
“住やたれ 霞のこのめ 春ふかみ
    もも咲山の 水上のさと”
        ― 津金文左衛門 ―
 裏面には当時の住職静高の撰文があり、この碑を建立した経緯が記されている。

所在地:飛島村元起二丁目46番地(長昌院境内)

元松地蔵

元松地蔵

 文政6年(1823)、元起之郷、松之郷百姓惣代の金左衛門が陣屋に据え付けを願い出た記録が残る。わが子が育った 乳に感謝し、余った乳をお預けするという、いわば子安地蔵・子育て地蔵に近いものがあったと伝えられている。また、かつて盆の14日の晩には、この地蔵前から元松神社まで用水を舟提灯が通った。地蔵と深くかかわった事も、残念ながら伊勢湾台風後はほとんど姿を消してしまった。

所在地:飛島村元起二丁目72番地

飛島村郷土資料室

飛島村郷土資料室

 昔の農業や暮らし、干拓の歴史、郷土芸能、各文化財、津金文左衛門などについて展示しています。

所在地:飛島村竹之郷三丁目1番地

奥田翁碑

奥田翁碑

 村長であり、県会議員でもあった啓次郎が、父重三郎のために建てたもの。藩儒増田紫陽の門下であった重三郎は、号を栖霞と称し、海東郡鍋蓋新田の出身。学問と農業を両立させ、敬愛された。

所在地:飛島村新政成1-21-1

文化財マップ(PDF 8.7MB)

問合せ先

中央公民館内生涯教育課
電話 0567-52-3351