飛島村

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概要・歴史

孝女「和喜」の碑

孝女「和喜」の碑

今の世の中でも、親孝行は大変むずかいしいことですが、1733年(享保18年)、大宝新田に生まれた和喜は、幼いときから何のためらいもなく病弱の両親を介護しながら、身を粉にして働き続けた大変な親孝行でした。その姿にまわりの人はただ声もなく、感動に包まれていたと伝えられています。

ここでは、後に「孝女わきの歌」として老人クラブなどで歌われた、親孝行な娘「和喜」のエピソードをご紹介します。

和喜の家は、父、母、妹の4人家族でしたが、わずかな農地を耕すだけでは生計は立たず、和喜は16歳の時、現在の弥富市に奉公に出ます。しかし、彼女は奉公先でも両親のことは決して忘れず、給金はもちろんのこと、時折もらう心付けもすべて両親に渡していました。現在でもそうですが、当時の彼女の年齢からすれば、少しでも身を飾りたい年頃の女の子ですが、彼女は節約につとめ、親の喜ぶ顔を見るのを何よりの楽しみとしていました。

その後、年老いた両親の面倒を見たいという理由で、10年つとめた奉公先をやめ、1759年(宝暦9年)に実家に戻りました。帰ってからの和喜の働きぶりはすさまじく、昼夜の区別もなく働き続けました。

そんな和喜に親類や近所の人も縁談を進めたが、お婿さんを迎えることに対して和喜は「結婚したら、夫に従うのが女の道です。もし、夫が親の意向に沿わず、夫もまた親に逆らうようなことがあったら困ってしまいます。こうして父母に仕えることこそ、終生の楽しみであり、念願です。」と頑として応じなかったと言われています。

その後、和喜の父親は病気なり、体の自由を奪われてしまいましたが、その父がこの世を去るまで、体の不自由な父を一生懸命看護しました。近隣の人々は、けなげなその姿に深く感動し、実名ではなく「孝女」「孝女」と呼んで彼女を褒めたたえました。

こうした事情を、時の大宝新田の地主であった長尾治右衛門胤が、尾張藩に上申したため、1780年(安永9年)和喜の親孝行に対して褒美金が出されています。

1800年(寛政12年)惜しまれながら彼女は静かにその生涯を閉じましたが、和喜の美しい心を長く後世に残そうと和喜の碑が大宝新田に建てられました。現在この碑は、大宝寺境内に移されましたが、この碑を眺めると心が洗われるようだと語る人は今も多いといいます。

また、後に次のような「孝女わきの歌」も作られ老人クラブなどで歌われました。

  1. 家計の助けと奉公に出ては骨身おしまず勤めにはげみいただく給金親ごに送る手本はわれらの孝女わき
  2. はたおり薪取り綿うち作業親を助けて妹を世話し家をばおさめて孝行つくす手本はわれらの孝女わき
  3. 病の父をばやさしく看とり夏は木陰で涼風送り冬は身体できものをぬくめ手本はわれらの孝女わき